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近年、ルッキズムという言葉があらゆる場面で使われています。しかし、ルッキズムの本当の意味を誤解している人も少なくないようです。今回は、ルッキズムとは何を意味しているのか、ルッキズムから自由になることはできるのか、を簡単に解説していきます。

ルッキズムとは、単なる外見至上主義ではなく、外見に基づく差別のこと

ルッキズムとは、外見を重視しすぎる主義のことだと誤解している人が多くみられます。そのため、「自分はルッキズムにとらわれ過ぎている、もっと自由にならなくては!」と思う人も少なくないようです。ですが、ルッキズムとは、自分の心の在り方を変えるだけで消え去るものではありません。なぜなら、ルッキズムとは「外見に基づく差別」のことであり、個人の問題ではなく、社会の構造の問題だからです。

ルッキズムの具体例。外見をランク付け、ジャッジする人々

写真のない履歴書でルッキズムを防止

ルッキズムとは「外見に基づく差別」のことです。たとえば、アメリカでは、求職者が履歴書を送付する際、写真の添付は義務付けられていません。それゆえ、通常、履歴書は写真なしです。なぜこのような履歴書になっているかというと、アジア人や黒人など、白人以外の容姿の人々は、仕事を得るのが難しかった、つまり、外見で差別されていた、という歴史的事実があるからです。写真なしの履歴書にすることで、少なくとも面接までは、外見による差別を受けずに、求職活動ができる、というわけです。

派遣会社テンプスタッフが、女性の顔面をランク付けして管理

「外見によって仕事の機会が減るように差別される」のは、移民だけではありません。たとえば日本では、1998年に、派遣会社テンプスタッフの登録リストが流出した際、女性登録スタッフの外見をA、B、Cとランク付けしていたことが発覚した、という事件がありました。

「美しい方だと思わない」と外見をジャッジ

近年の事例だと、2024年1月に、麻生副総裁が、川上陽子外相に対し、「そんなに美しい方だと思わない」とコメントした、という事例もあります。麻生がこのように述べたのは、川上が女性だったからであることは明らかです。男性の外見はジャッジせず、女性の外見だけジャッジする、これは、セクシズム(性差別)とルッキズム(外見に基づく差別)の典型的なコンボだと言えるでしょう。

ルッキズムは、レイシズムやセクシズムと関わっていることが多い

このように、ルッキズムとは、外見に戻づく差別であり、多くは「身体的魅力がない」とジャッジを下され、それにより不利益を被る構造のことでもあります。(ルッキズムの多くは「身体的魅力がない」というジャッジにより発生しますが、仕事上関係のない身体的魅力に言及することで、相手の仕事に対する能力を軽んじる、という形で差別が発生するケースもあります)



ルッキズムから自由になる方法とは? ボディ・ポジティブでは解決しない

外見によるジャッジがはびこる世の中で、ルッキズムから自由になる道はあるのでしょうか

近年、ボディ・ポジティブがムーブメントとなり、ふくよかな体形の女性モデルがかっこよく、かわいく、美しく表象されることが増えてきました。ボディ・ポジティブムーブメントにより、自分の身体が好きになれたり、過度なダイエットを求めなくなったり、といったよい効果を感じられた人も少なくないでしょう。細いだけが美しさではないのだ、様々な形の美があるのだ、と示すことは、多くの女性をエンパワーしました。

しかし、ボディ・ポジティブムーブメントは、美しさの多様性を促進することになりはするものの、ルッキズムから自由になる手段としては、使えません。なぜなら、「自分は美しい」と思えたところで、他人から外見をジャッジされる機会が減ることにはつながらず、外見による差別を受け続ける可能性があるからです。

ルッキズムに立ち向かう際、「自分は美しい」と思わなければならない事態もまた、美しさ、外見に囚われている状態だと言えます。ボディ・ポジティブムーブメントはある意味、肯定するべき美の基準がひとつ追加されただけであって、根本的なルッキズムの構造自体は、温存されたままだと言えるのではないでしょうか。

なぜ、「自分は美しい」と思わなければならないのでしょうか。どんな外見でも、美しくなくても、生きていていい。ただそこにいるだけで、差別されることなく、生きていることを肯定されてはじめて、ルッキズムから自由になったと言えるでしょう。

ルッキズムから自由になるために個人でできることはあるのか

現実問題、世間的な美の基準にそっていない人は不利益を被る世の中です。「ブス」とののしられることも、外見をランク付けされることも、外見による差別(ルッキズム)なのですから、「ありのままの私が美しい」と内心を変えたところで、ルッキズムから自由になることはできません。

ルッキズムは、個人の問題ではなく、社会の構造の問題

ルッキズムに苦しめられているなら、まずは、これは、個人の問題ではなく、社会の構造の問題だということを意識する必要があるでしょう。ルッキズムに苦しめられているのは自分が悪い…と自分を変えようとするのは、不当差別されている人が、「差別されているのは私に原因があるのだ、私が変わらなければ」と思い込むようなものなのです。

「褒め」であっても、外見に言及しない。「容姿で人をジャッジする」人にならない

ルッキズムを完全に消し去るには、社会を変える必要があり、一長一短には叶いません。ですが、個人でできることはあります。

ひとつには、「美人」「綺麗」という褒め言葉であっても、人の容姿を評価する言葉を口に出さない、という方法です。とくに、仕事上の付き合いなどで、こういった発言はNGです。なぜなら、褒めであっても、美醜の評価をすることで、その集団内に「容姿で人をジャッジする」という価値基準を発生させてしまうからです。

ルッキズムを消し去るためには、容姿で人をジャッジすること、それ自体を止める必要があります。当然、人間ですから、美しいと思う人と出会うことはあるでしょう。ですが、口に出す必要はありません。

美しいと褒められて喜ぶ人もいますが、「容姿をジャッジされる」こと自体に嫌悪感を抱く人も少なくないのです。「容姿で人をジャッジする・される」場面は、未だにたくさんあります。この社会を変えていくためには、少なくとも自分からは、「(口に出して)容姿で人をジャッジしない」と決めておく必要がありそうです。

脱コルセット? 差別に対抗するアプローチは、人によって違う

韓国では、10代の女性たちの間で、脱コルセットというムーブメントが起きているといいます。脱コルセットとは、長い髪やメイク、ハイヒールなどの着飾りを拒否し、長い髪を切ったり、コスメを捨てたりする運動のことです。これは、女性にだけ外見を美しく着飾ることを要求し、ノーメイクでいると蔑まれるといったセクシズム(性差別)やルッキズムに対抗するために生まれた流行です。

ただし、だからといって綺麗になりたいと考え、メイクやファッションに力を入れることがルッキズムの加担になるわけではありません。「綺麗になりたい」と美しさを追求することと、「ルッキズムに加担しないこと」は両立します。誰も見下さず、自分を痛めつけることもなく、美しい自分を追求することは、悪いことではありません。自分に手をかけること、自分の好きな容姿を目指すことは、人によっては、セルフケアにもなりえます。

繰り返しになりますが、ルッキズムは社会構造の問題です。人種差別や性差別と同様、一朝一夕に消え去るものではないのです。あらゆる差別に、さまざまなアプローチがあるように、ルッキズムに対するアプローチも人によって異なります。ルッキズムに対抗するために、ルッキズムから少しでも自由になるために、個々人ができることを模索し、社会に変革を求めていく必要があるのでしょう。